富野由悠季と亙重郎、両者の対談は97年5月某日、 新宿の某所にて行われた同席した者は4私ソフトバンク編集スタッフ2名、 ライター1名そしてカトキハジメである 結論から言えば、対談は意外な形で進行した。 予想外とも言える「生」の言葉の奔流は、心構えのない者にとってはかなりドぎつい。 それは時として刺々しく、そして痛々しい不思議なことに、 両者の言葉と意識の間には奇妙な収斂現象がある。2人の間には、各々の生きる時代、 そして世代の病理に蝕まれた肉体と精神の溝が大きな障壁として横たわっているにもかかわらず、 彼らはそれをものともしないのである。 付言すれば、情況のストレンジ性を浮き政たせていた要素として、 2大の肉体の器に盛られた各その精神のミスマッチぶりが挙げられる 〔勿論、こんなことは本人遂にとってどうでも良いことなのだろうが。 phase 1 拠り所としての規範と発信者 亙 何から話しましょうか。 富野 僕のようなレベルの、いわゆるすがりたい人間が 「これだったら、間違いなくすがっていい」と思える言葉が欲しい。 もう少しだけ、このレベルの対談で分かりやすいこと言うと、 エヴァは違うんだよって言う言葉が欲しい。 亙 結局、エヴァは(みんなが望んでいたものとは)違っていた。 「どうなっちゃうの、日本のロボット・カルチャー?」みたいな感じですかね。 原点から見ていくと、鉄人28号、ジャイアントロボから始まっての、 サンダーバード的な(説得力としての)リアル感。 ガンダムから始まっての兵器としての「宇宙の戦士」的リアル感。 こういったアブローヂは、その時その時で、絶対に正解だったと思うんです。 やっぱり子供達はワクワクして、心奪われましたから。 しかし現状でエヴァ的なものはどうだったのか、と言う気はしますよね。 富野 しますでしょ。 それと同時に、今のエヴァ関係で物凄く困ることっていうのを、僕は感じてるんです。 亙 何でしょう。 富野 エヴァ現象が一つの商売になると思っていたり、 エヴァ現象を語ることが、ひょっとしたら文芸批評だと思ってるとか、 もっと立場が悪いのは、日本の大新聞に評論を書いてみたり、とか。 こんな困った状況に対して問題意識を抱いたとき、 それを的確に表現する言葉が欲しい。 今、僕はその言葉が分かんないんで困ってる。だから教えて。 亙 どうですかね、 富野 どうですかじゃない、教えなさい。 あなたの方が頭いいんだから。これは年齢には関係ないです.頭の良さなんて。 亙 う−ん……やっぱり人間、ゴールを求めるなら期間として10年は欲しいですね。 10年侍つ。中国人じゃないですけど。 富野 ほんとあなた頭いいよ。 亙 結局、物事を論じる場合、2、3年じゃ見えないでしょう。 その時にどんな言葉で繕ってみても. やばいときに言葉をいくら積み重ねてみても言葉に頼ってるって言われる、 そんな誹りを免れないんです。そんなときに、10年待とうってぐらいの気構えがあると、 真理が見えてくることもあります。何のかんの言って、 その時代に巻き込まれていると結局見えないじゃないですか。 まあエヴァ程度だったら2、3年で見えるかも知れないいけど。 でも、いいと思うんですよ、今レイちゃんが好きな子は、それで。 アスカが好きな子にしても、そういった類型的少女の妄想に夢中になれる人は、 それはそれで美しいしゃないですか。 富野 美しくない。美しくないよ、そう言うなよ、しょうがなくないよ、 亙 でも、10代の男の子として、それは正当な「あるがまま」の姿ですよ。 富野 俺が10代のときに、チンチン立ったのは、レイとかアスカじゃないのよ、 もうちょっと姉ちゃんだったのよ。 亙 でも、今は違いますもん。 富野 何で、そんな違うものがいいのよ。 亙 レイとかアスカとかの方が、彼らにとってリアルなんです。 彼らの求める方向性としてのリアルなんです、 富野 それが雄として、動物として、入間としていいのかよ。 亙 彼らがいいと思う方向性と、維としていいと思う方向性は 違います。 富野 そんなの分かってる。 亙 彼らにとってはそれが一番安心出来る雄としてのベクトルなんです。 勿論、かなりヘナヘナ度は高いですか。 富野 そんなのは分かってるよ、それをとても頭のいいあなたが、何で平気で見てられるのよ。 亙 心奪われた男の子は、頭が冷めるまでは何を言っても無駄ですわ。 富野 何でそんなに大衆を捨てられるの? 亙 捨ててませんよ。 だって、「これはダメなものだ。こうあるべきだ」なんて押しつけるのは父親的な独善ですよ。 間違ってるからって、こんな時に押しつけたら、 かえって拒絶反応が強くなるっていう事、あるじゃないですか。 富野 あるのは分かる。あるのは分かるけど。 亙 だから、時期を待って言ってあげるんです。 でも、今は駄目。今、もし俺が何も知らない10代だったら、 間違いなくそうなる(エヴァに夢中になる)って分かるから。 富野 僕は分からん。 亙 僕は分かりますよ。 富野 それは分かるわ、お前の方が若いんだから。 亙 そこがギャップなんです。 だから僕は待つ。それから言ってあげる。 これをやってあげられないのは、 もしかしたら富野的な限界なのかも知れないけども、僕は待てる。 富野 あなたは侍てる、若いから。僕は4年後に死ぬの。死ぬ前に言いたいの。 亙 ならば言ってください。 富野 だからそのときの言葉遣いが分からないから教えてくれって、 さっきから言ってるじゃない。 亙 それは自分の言葉で言うのが、結局一番いいんです。 自分の言葉で言ったら、今はダメでも10年後に分かって貰えるかもしれません。 富野由悠季という人間か今際の際に、 10年前に、こういうことを言っていた、と分かって貰えます。 言葉ってそういうものじゃないですか。 発信した人間の口から離れた瞬問に、もうその本来の意昧って失われてる。 偶然の経緯で分かるときがあったとしても、それがいつなのか、なんて分からないです。 もしかしたら10年後にそんな奇跡があるかも知れない、 そんな期待を込めて言うぐらいの希望的根拠しかないですよ、 現状でもし「言葉」を発するとしたら。 富野 言葉の話はここまでにしておくとして。 今の時代って「言葉の時代」じゃなくて「システムの時代」なんだ。 これから言うことは「問違ってる」と言って欲しいんだけれども、 実はエヴァ現象を含めて、今までの人類史において、 ひょっとしたら初めて変わりつつあるシステムが作勤しているんじゃないかと感じている、 それは、室町時代以降の天皇制のシステムとはちょっと質感が違うような気がする、 亙 それはちょっと違います。 結局、一つの規範としてのシステムは、延々と統いています。 免罪符としてのシステム。南無阿弥陀仏としてのシステム、ずっと同じです。 これにすがっていればオッケー。品か違えど、形が違えど同じです。 で、話を戻すと、それに目が真っ黒になった人々を、 無理にこちらに振り向かせるというのは、かえって弊害が生じます。 彼らの熱が冷めたときに、こういう道もあるんだよ、 と言ってあげる方が親切というもんです。 これが、一番効果があるんです。 そもそも、自分が何をしたくて、そのためには何が一番効果的かと考えたときに、 タイミングを見るというのは発信者としての一つの義務であり、責任だと思います。 逆に、「今ここで、どうしてもこれを言いたい」というのは、 発信者としてのわがままです。発信者は、 もしコンセブトを伝えたいというところにブライオリティを置くのであれば、 時期とタイミング、それを見るべきです。 富野 そういうことで言うと、 この15年間自分が死んでたという部分が 物凄く有り離いことだなっていうふうに今思っています。 実はさっきまで物凄くマイナス寄りだと思ってたんたけど。 亙 僕もそう思ってます。 富野 だけど、そうなったときに、僕より頭のいい亙さんに、 もう一つだけ教えてほしい。 今度は本気で教えて欲しい、「時 間を待つだけの余裕というのはあるんだろうか、我々には?」というのを教えて欲しい。 亙 あります。 富野 どうしてそう言える? 亙 それはあるからなんです(笑)。 なぜって、ほんとに伝えたいと思うんだったらあります。 富野 地球ってそんなキャバある?どうしてそう思える?そういうふうに信じられる? 亙 もしなかったら、今この場で死んだっていいじゃないですか、 死ぬ必要はないんです。何故か。それは、あるから。 富野 なぜそんなに分かるかな(笑)。 亙 はっきり言って、十分チャンスかあるからです。 ミスター富野、という発信源としての可能性。 富野 僕、今富野の話は聞いてません.、地球だよ。地球のことだよ。 亙 それだったら、ますますあり。 富野 どうして。ほんとにある? 僕、今地球ってのは、この程度のちっぽけなものにしか思えないんだ。 亙 そんなちっぽけなもんだからこそかえってあるんです。 プレがないから。結構捨てたもんじゃないですよ、人間なんて、駄目だけと。 だって、この新宿界隈で、この程度の問題について、 この程度の内容を勝れる人間違がいるわけですよ。 これの数億倍の人間がいるということ考えたら、結構チャンスありますよ。 富野 少し分かった。だけど数億人、数十億人いるんだよね。 数十億人がほとんど愚鈍で、僕みたいな馬鹿もいる。そいつらか食いつぶすと思わない? 亙 食いつぶすでしょうな。 ただし、それはもうしようがないんです. 数十億人、例えば八十億人の人間かいたとして、 一つの良心ある発信源が十億救えたら、多分それは大正解なんでしょう。 富野 僕は救いたいんだ。 亙 その意思が強ければ強いほど、通じると思います。 これってダメカルヂャーの―つの方向性としての宗教じゃないですか。 宗教は思いが強ければ強いほど、通じます。 そういう点で、僕は「あります」って確信をもって言えます。 人にとっての宗教って論理じゃないですから。 富野 だけど、また思いついたから、浅知恵と愚鈍な大衆が思いついたから、 反論じゃなくて、こういうのどう排除したらいいか、ということを教えて欲しいんだ。 麻原彰晃みたいなのがいるんだ。邪魔するんだ。 ああいうのに対して、やっぱり何とかしたいと思いたいんだけれども。 亙 気にしなさんな。あれは淘汰される一線上のレベルのものです。 宗教なんていろんな形でもって、あちこちから芽生えます。 一番「正しい」もんだけ生き残るんです。 その時代に、その時代の人達が受け入れられる(あるいは、共感できる)形として 最適化されている……すなわち正しいものが。 イスラム教だって、別に正解じゃないじゃないですか。 でもあれが受け入れられたのは、あの時代に一番マッチしとったからです。 富野 だけど、今もマッチしてる。 亙 それは相応の汎用性のある規範を作ったからです。 phase 2 バーチャロン的方法論 亙 話の方向を、少しこの本の内容に即したものに修正してみましょうか(笑) ……いわゆるロボットものの歴史というものを、倹なりに考えるわけです。 アトムが、手塚治虫的なものから発した一つの強烈なイメージの特異的産物だったとして、 それはそれでOK。あるいは祖型としての鉄人28号。 サンダーバード的なリアルに則って日本的な解釈と変成がなされた巨大ロボットもの。 源流としてのロボットは、その当時既に―つのメディア媒体として成立していた、 と。その後、そういったものがあるていど縮小再生産的な袋小路に追い詰められた。 ここで宇宙の戦士的な、兵器的アプローチでリアルな新しい方法論が見いだせないか、 という線からガンダムが出てきた。  以上は、ある意味一般的な受け止め方として正解だと思ってます。 作り手として何がやりたくて、何がやりたくなかったということは別にしても。 問題は、それが20年続いている現状において、 再度縮小再生産的袋小路に人ってしまって、最早それを敢えて続ける必要性かない、 ということなんです。何でここまで続いてしまったかという事は、 真面目に考える必要かあるんでしょうけど。 男の子が劇的にワクワクした、やっぱりこれに尽きるのかな。 それは一つのSFと言ってもよかったのかも知れない。 「SFの原義って何なの?」って言うことになると、 私的には、夢見がちな男の子かワクワクする、そういったメディアでもある、 ということにしてます。そういったものが、現状では映像レベルでも、 テキストレベルでもなくなってしまっている。 唯一ゲームだけは多少なりともワクワク出来る可能性を持っているらしい。  そういった中で、日本人が戦後延々と育んで来たロボット・ダメカルチャーみたいなもの、 あるいはSF的なるもの、子供が「それって嘘じゃん」なんて斜に構える事なく、 なんのてらいもなくワクワク出来るようなメディアとしてのSF、 ツールとしてのロボットというものがある事を忘れたくなかった。 そこで僕はゲームに基盤を移し替えて、 違ったアプローチが出来るんじゃないかということを真面目にやってるわけです。 今、「一つの『SF』としてのゲーム」っていう捉え方があると思うんです。 従来のSF、つまり、テキストレベルにしろ、映像レベルにしろ、完全に終わってるんです。 もうワクワク出来ない。だから、僕はゲームにそれなりの期待をしてしまう。 勿論、ゲームが出来ない人っていうのが厳然としている、ということは百も承知です。 とりあえず、それは文章読めない人間がいるということと同じレベルだと今の僕は割り切ります。 但し、そういったレベルの人でも、ボタン押す時ワクワクすることもあるんです。 その絶対数は、ターゲツトとなる世代においては、 本を買って1ページ目を開いてワクワクする入聞よりも、明らかに十倍は多い。 そういった状況下で、彼らをワクワクきせるために、僕らはものを作る。 そういうスタンスがある。 そういったレベルでの再構成としてのロボット・ダメカルチャー、 エンターテインメント環境としてのバーチャロン、というふうに受け止めるのが、 一番正解に近いんです。  そんなわけなんで、いまさらガンダム的方法論云々とかそういったことを (周囲から)言われても、違和感を感じてしまう、 そもそも巨大ロボットとしての鉄人28号、マジンガーZといったものがあった。 それが行き詰まったとき、一つの新しいアプローチとして「兵器であるところのロボット」、 つまり「ガンダム」が出てきた。 でも、本来だったら、それは等身大メカで良かったことなんです。 それが巨大ロボット的なニュアンスを残してしまったのは、 時代の流れの慣性のあおりを受けてしまったから。 バーチャロンがある意味で「これ、ガンダムですか」って言われてしまってもしょうがないのは、 ガンダムの後に出てきたから。現状では「ガンダム=ロポット」ですから。 「ガンダムをゲームの土壌に移し替えてどうのこうの」っていう方便については、 僕等もずっとその線でものを語ってきた(つまり、利用してきた)ということに 罪を感じてはいますし、そろそろ捨て去るべきものなんでしょう。 ただし、ゲームという手段を取ってSF的なワクワク感というものを出す方法論として、 僕らのやってることは間違ってないと思うんです、 現状ではゲームが一番ワクワク感を得られるSFツール、メディアであるという前提に則って、 日本オリジナルと言ってもいいレベルまで発展して来た ロボット・ダメカルチャーを潰しちゃいかんという一心で、 能力のあるクリエーターを集結してやってるわけです。 今はガンダムどうのこうのっていう、コンテクストなり、下らん議論は置いておきたい。 それよりも、バーチャロン的な方法論をもって、ゲームでどこまで突っ走れるのか、 あるいは、発信源としてのゲームというのか、 一つのメディアの方向としても面白いんじゃないか、と提言したい。 つきあってくれる人たちを絶望させる気はない、 という作り手の気概は未だ伝わってないのかな……。 ここらへん、まだまだ力不足であるかなあという気はしてますね。  最近の子供にとってのSF的ワクワク感が、ミニ四駆にいっちゃってるっていうことは、 「終ってる」感を増幅させてると思うんです。 ミ二四駆って確かに面白いし、実は僕もかなり大人げなくハマってるんです。 但し、所詮『ミニ四駆』。この、現実レベルにあまりにも徹してしまってるような状況。 なんたることか、と思うんです。 雅びな日本人として「もっと文化的に昇華されたコミュニケーション空間を 必要とするものを作っていく!」ぐらいの気概は欲しいですな。 これはこうではなくてはならないなんて規範を、自分の中で勝手に作って閉しこもり、 それで安心しているっていう状況を良しとするのは理解出来ません。  なぜ、このロボットという素材を使って、 「ここでこれが出来る」ということを提示して行くことが出来ないのか、 しないのか。なぜ、アプローチすることが出来ないのか。 そういったことに関して、僕は元々アニメ畑の人間ではないんで、 だからこそ言えることなんでしょうけど、現状のアニメのつまらなさ、 いわゆるパッシブな映像情報としてのアニメ、 あるいは日本特撮のつまらなさというのはどういうことか、という実感が常々あるんです。 ちなみに、ゲームってある意味で、パッシブな情報メディアほどの映像的完成度って 期待出来ないんです。でも、その中でこれだけのものが出来る、あるいはやっている。 なのに、あんたらは何をやってるのっていうのは、一つのアジリとして言っておきます。 あんたらやらないんだったら、俺らどんどんやっちゃいます。 「これから俺ら10年これで食っていくつもりなんだから」っていう感じで、 倹等走っちゃいますよ。 phase 3 メディアの臨界、人の臨界 ライター そうです、それで走っていいんです。 この半年でそれにようやく気がついて「亙だけ走らせねえ」って思いはじめたのが、 富野さんなんです。 亙 僕は競ってくれる奴がいないとダレるんで、有り報いです。 富野 これが最後のへりくだりの言葉なんだけど、 今そういう相手がいらっしゃったら教えてください。 亙 いません。 富野 はい(笑)。たから僕を蹴落とす相手にしてください。 というのはどういう事かというと、今度はこっちか頑張って、 蹴落とされる価値のあるものにならないと、蹴落とす意味がないわけだから(笑)。 亙 ただし、倹の方には全然違うアプローチで仕事をやってる、という不安定さがあるんです。 ゲームって、パッシブなメディアとしての情報供給機能が乏しいんです。 ブレーヤー間の、これやると面白い、面白くないという、 相互通信的コミュニケーション・メディアとしてはかなり効率的に機能しうるんですけれども。 モード、オーソドクシー、あるいは規範。この手の概念を伴ったもの、 例えば5体が合体して、5人の心が一つにならないと駄目なんだみたいなところ…… 富野 分かります。 亙 そういった次元での機能不全は否定できない。 情報の押しきせができないんです。ゲームはゲームなりにメディアとしての弱点はある、 ということです。それをわきまえた上で、どういった感じで、 バランス良くバーチャロン的な方法論を意味のある形に組み上げて行くかという事が、 ―つのやり甲斐として存在してます。 何がどこまで出来るかというのは、これから見せていかなくちゃいけない。 富野 だけど、物凄く冷酷な言い方するけども、 それはゲームであるかぎり絶対ないよ。あったら、それはもうゲームじゃないんだもん。 亙 最終的には、ゲームに留まることは許されないと、見てるんです。 富野 そういうことです。だから、最近僕が批判的に言うのは、 ゲームという媒体もある。映像という媒体もある。 活字という媒体もある。その三位一体に立ち上がらせるっていうところでの、 ソフトが持っている規範を示しうるロジックというものを提示しなければいけない。 提示しなければいけないというのはどういうことかと言うと、 三位一体となったソフトというものがあるという、 そういう作品を作らなくちゃいけないところにようやく来たんじゃないのかな。 編集 いいこと言ってます。これは正にこの本のテーマなんで。 実際にそれを目指しているんです。つまり見る側の発信源として。 富野 目指しているとは、悪いけどまだ思えない。 纏集 それはまだスタート段階だからです。 富野 そういうことです。 そして、今、ようやく分かったんだけど、だから凄く感心したの。 亙さんがメディァとしての弱点を感じているということなんです。 亙 弱点を踏まえた上での、バランス感覚というのが物事を 上手く進め得るか否かの決定的な条件になると思うんです。 このメディアはこれが弱点であるから、これを違うメディアで埋め合わせなくちゃならない。 それを一つ一つ。……いいんです、2年かかろうが、10年かかろうが、 最終的に笑えればいいと思っているんです。 高野 じゃあ、そういう意味で、ちょっとこういう質問したら、 少しは(対談として)普通になって来たのかなと思うんだけれども、 実はこの2、3年、これはきっと違うんだよねと思ったこと、 感じたことがあるんで、教えて欲しいのよ。 双方向、インタラクティブだからいいというメディア論、 インターネット論があるよね。双方向のメディアがあるという話、 僕は信じないんだけども、あれどうなの。 亙 今のレベルでは嘘です。 富野 嘘でしょ。双方向のメディァ論ってないよね。 メディァの機能っていうのは、まずある一つの規範を示すということでしょう。 亙 それはパッシブなメディアに限定されるなあ……。 そう言う風に示さなくても、双方の示し合わせで出てくることもあるんです。 どちらが正しいのかって言えないんですが、最終的に…… 富野 それ校くない? あなたのインテリジェンスのレベルでそんなこと言うということは、 インテリゲンチャが佼いんだよねって言いたくなるんだけど。 分かってんだから教えろよって。 亙 率直に言って校くはないです。 人々の心は推し量りがたいんです。 僕等がこれが正しい、20年後にこれは絶対正しくなると思っても、 一年後の彼らはそうは思わない。 彼らにとっては一年後が真実であるというふうになったときに、 僕等が言ってることは真実じゃなくなる。 何がどういった経過で真実になるのかは、時代が変わらないと分からない。 勿論、やることに関しては真実に近づくように呼び水を作りますけれども、 それが成功するかどうかは実は分からない。そして、歴史的に成功したものだけが真実、 つまり結果論的真実なんです。僕がやってることは、失敗するかも知れない。 その時点では結果論的真実じゃないんで。 僕はある意味、ゲーム的ツールにおける双方向コミユニケーション空間というものを 否定する人間じゃないんです。ある程度のインテリジェンスを持ってる人間が、 自分の中にきちんとした規範を持ってクリエイトしていければ、 それは完成しうるものだと思う。ただし、それは失敗する可能性も凄く高いです。 でも、この中で自分がどれだけ機能出来るかというものに、僕は挑戦し甲斐を感じてます。 これだけ失敗する可能性か高い、ハイリスク・ハイリターン状況の中で、 自分に何が出来るのかというのを試してみてもいいと思ってる。 別に失敗してもいいんだからね、というところでやってるんです。 失敗することを恐れて何が出来るかという気がします。 そして、成功したときの見返りは、金でもステータスでもないです。 本当にこれか出来たら、すげえ面白いじゃんと思えることを糧にしてる。 富野 ただ、敢えて反論という言い方をするんですが、 亙さん、そこまでそういうふうに言葉として表現するというのは、 ほんとに正にあなたが喋ってる事自体がゲームになってるでしょう。 頭のいいインテリっていうのは、そういうふうにして遊んでるんだよね。 だけど我々凡族、愚鈍な人間というのは、生きるということで、命を掛けちゃってる。 そんなときに、インテリがそういうふうに偉ぶって言ってるところで 楽しまれているゲームを下されるんだったら、 そういうゲーム、俺はやりたくないと言いたいんだけど。 亙 それは違います。僕は人間を愛してますから。 富野 嘘だ。インテリの嘘だ(笑)。 亙 僕はインテリじゃないですよ。 富野 だって東大受かったじゃない。 亙 東大受かるということは、ある種のレーベルであるけれども、 それはインテリであるということと同義じゃないです。 僕には、這い上がって来た人間という自覚があります。 インテリ的な世界観と、大衆的な世界観の間にあるギャップ。 その中で喘ぐにしても、もし人を愛する心があるんだったら、 何をやるべきかということに関して、こういった良心があってもいいんじゃないか、 と―つの手法を提言する。要は、こういった生き方もあるのでは、 みたいなことを僕は実験してるんだな。 今やってることか駄目だったら、やり直しますわ。 35歳ぐらいになってやり直しても、まあ別にオッケーでしょ、 みたいな考えで気楽にやってます。 富野 やっぱり今のも最後の一言が抜け出してるよ。 凡族って、馬鹿っていうのは、やり直しきかんのだ。 だから35歳になったときに、やり直し出来るなんて思わないから、死ぬんだ、勝手に。 亙 僕はそういった人に犠牲を強いるつもりはないです。 ただし、自分は35歳になってもやり直しの効く人間だから、 そしたら35歳になるとやり直しが効かなくなる人、 あるいはやり直し方がわからない人に対して、道を新たに示せるように頑張ろうということです。 富野 インテリだから出来る。 亙 う−ん、これってインテリじゃないと思うな。 インテリという言葉の定義にもよると思うんですけれどもね。 そもそも自分は、一人で一つの完結した内的世界を作るようなことに、 満足なり目的意識なりを持てる人間しゃない。 そのうえで、いわゆる一般的インテリ世界に属して 一つのアイデンティティの確立を目指すような人間でもない。 確かに、現在の自分は多少インテリ的な次元に食い込んではいる。 しかしそれは何故かと言えば、その位置に立つことによって、道に迷っている人問、 あるいは「そこそこ楽しくやってるようだけど、もっとこうすりゃ面白くなれるじゃん」 という状況下の人に対して、それなりの事を示せる人間が求められていると思ったからです。 富野 それは正しいけれども、 やはり馬鹿な人間、愚鈍な人間の悪あがきを言わせてもらう。 そういう話聞けば聞くほど、あなたやっぱり厳然として、 あなたがどんなに理論武装しようが、何をしようが、大衆に下りて来れない。 インテリを神だなんて、間違っても思わないからな。 亙 いいじゃないですか。そういうふうに思って貰えると、 真意に近いというものです。神なんていないんですから。 僕は常に一つのアジリとし、自分の…… 富野 ……いい加減に止めろよ、そんな話。 亙 自分の係わってるものに関してよく言う事なんですけれども、 すがることは止めろ、と。すがる対象を求めることは止めろ、と。 信じる対象を求める作業を止めろということは常に言っちゃいますね。 富野 あなたのインテリジェンスから見たときに、 「大衆というものはそういうものをいつも求めているんだから、 宝物を餌として、俺は投げ与えて上げられるんだよ」って、 物凄く人として許せないくらい偉ぶってるよね。俺そういう奴と話してるの嫌だ。 亘 では、もしそれが出来ない人間ばっかりだったらどうします。 富野 インテリってここまで言うんだよ。俺、亙、嫌いだ(笑)。 亘 は盲野さん凄く好きですよ。 富野 好いてください。 大衆として、小さいかも知れないチンボコ、一生懸命振り回してるんだ。 亘 そうは思えないな。 富野 そうなの。 亙 大体、僕には「インテリ対愚民」的60年代ライクな世界観はないですよ。 富野 僕は今言った通りよ。 今言った台詞、お世辞も含めてだけど、嘘言ってないと思うよ。僕はこの程度の人間。 亙 それがいいんですよ。それが素晴らしい。 富野 素晴らしくない、辛い。 亙 そこが美しいんです。 富野 勘弁してくれ。ほんとうはこういうふうに言いたくないの。 亙さん偉いねって、倹はあなたのファンですって言いたい。 だってその方が楽だもん、だけど言えないのよ。 亙 僕が富野先生を好きになる理由は、正にその一点です。 普通はそこで好きになっちゃう方を選ぶんです。信じる方を選ぶんです。 富野 どうして。 亙 そうした方が楽だから。 富野 楽じゃないよ。 亙 楽なんです。 富野 馬鹿だもん、そんなこと。俺そういうふうに馬鹿になりたくない。 僕はインテリになれないの。でも、インテリになりたいの。 亙 それは富野的インテリですよ。 そして、そこには既に自己矛盾(とも言える時代・世代固有性病理)が生じています。 富野 生じているよ。 亙 僕はそれが好きなんです。 僕だって、僕なりの矛盾を抱えてますもん。 でも、自分の矛盾をわきまえた上で、 しかも富野先生が今おっしゃったような内容を言われることを覚悟の上で、 僕はものを言ってます。 富野先生も、御自分が今おっしゃったことに対して、 僕がやったような突っ込みを入れられることを覚悟で言ってると思うんです。 それを僕は愛しますよ。  結局「これで決まり」ってないんです。 その中で、だから敢えてこうする、それに対して俺は敢えてこうする。 そういうふうに言い合うスタンスっていうのは(ありのままで)美しいな。 僕は富野先生に今のような言葉を言って貰いたくて、自分なりのカードどんどん出しました。 富野先生はそれにちゃんと応えてくれた。僕は今の一連の会話を凄く美しいと思います。 富野 だったら、亙さん、一つだけお顧いがあるの。 美しいという形容詞だけは使うの止めて欲しいの。物凄く耳障りだから。 亙 なんて言って欲しいですか。 富野 別の言い方してくれればいいだけのこと。 どういうことかというと、美しいという、あなたのルーティンワークの嵌まりがあって、 そろそろあなたのインテリジェンスが枯渇しはじめてるかも知れない表現かも知れないから、 それ止めて欲しい。 亙 僕にとっての美しいという言葉は、さまざまな意味を含んでいます、 それはシニカルにアイロニカルに、あるいは単純な詠嘆です。 富野 そろそろ散漫になりすぎてるから、止めなさいよ、そういう言い方は。 亙 散漫になってるところがいいんですよ。 ある橿平板になったときに、初めてもう止めろって言って欲しいな。「お前もう枯れた」と。 富野 若い。ここで一つだけ、これはもう年の功の馬鹿さで言わせてください。 半分は皮肉だけど、半分はほんと羨ましい。 そういうふうに言えるというのは、正に若さなんです。 悔しいくらい若いし、そういう言葉、やっぱり僕はそれこそ今の亙さんの年代のときに やっぱり欲しかったけれども、今になってもそういう言葉を獲得出来ないから、 やっぱりジェラシーを物凄く感じます。 亙 それは時代的なものもあると思うんです。あと、所詮僕は生意気野郎ですから。 とは言え、それなりに痛い目には遭ってますけど。 でも、言う事をやめなかったというところに、今の僕があると信じてるんです。 一言発した瞬間に顎の骨を割られてる、ということもあった。 でも僕は言うこと止めない。止めたくない。 phase 4 独白 富野 システムを構築していくということと、 そうではないビュアな意味で言うクリエイテイブをするということ、 この両者に携わる者は、実は人種が違う。テクノクラートとクリエイターというのは、 実は相いれない存在なのかも知れないなって、最近思いはじめている。 これはどういうことかというと、例えば今村昌平が、 映画を作るに当たって銭を集めて来なくちゃいけない。 本来なら、これは経営者というテクノクラートがやらなくちゃいけない。 例えばそんなときに、今村昌平の心意気が分かって、 銭を集めてくれるっていう動きは、今の日本の経済機構の中には存在しないという不幸がある。  僕は「かくも長き不在」という映画は見ていません。 どうしてかと言うと、見たくもないから。 どうして見たくないか、と言うと、監督のアンリ・コルピのスタンス、 つまり、クリエーターとかアーテイストの業だけで仕事をしていくと、 しょせんそれは「私のことを分かってくれよ」という事を いつも吠えてるようなもんになるわけで、そういうのは好きではない。 むしろ愚鈍な一般大衆が見てくれて、楽しんでくれるものが 本来のエンターテインメントだと思ってるわけ。 勿論、「愚鈍な大衆が喜んでくれるもの」が「エンターテインメント」ではない。 本当のエンターテインメントっていうのは、愚鈍もインテリもないんです。 さっき亙さんが言った通りのことなの。 ワクワクする、ドキドキする、それから自分がそういうものに接したときに、 ワーッ、ワーッ、ワーッていう心を与えてくれるものがエンターテインメントであって、 日本語で言うと、芸能なんです。 芸能の心っていうのは、ある一人の作り手のコンセプトなり、 意思なりメッセージなりを理解しろ、というようなものを作ることではない。 そんなものは「お前の芸術」だろう、「お前の作品」だろう、 俺はそんなものは見たくない。俺は見て楽しみたい。触って楽しみたい。 演じて楽しみたい。……それが芸能であってエンターテインメントなんだ。  そして本来人間というのは、動物なんだ。動物ってのはどういうのか。 今生きてる、今生かされている、という元気を手に入れるためには、 いつもいつも食うためのことだけを意識して、肉食獣であったら、 別の命を食い殺して食わなければ生きていけない。それに近い人間が、 肉食獣からベジタリアンに移行しはじめてる。 移行しはじめてるから、それで殺生をしないですんでいる知的な動物なのかと言ったときに、 嘘をつけ、です。やはり命を食ってるんだからしょせん動物でしかない。  生物とか動物というのは、そうやって弱肉強食の輪廻の中にいて、 なおかつ今日は元気に生きて行きたい、今日は気持ち良く生きたい、そういう衝動がある。 「今日を気持ち良く生きる」とは、どういうことか。 例えば、ここでセックスしたら、自分の子供が生まれてくる。 自分の子供が生まれてくれれば、私はここで死んでもいい。 そう思える元気なセックスが出来るようなものが生物なんです。 そうすると、エンターテインメント、芸能、お楽しみってのは一体何なのかと言うと、 そういう元気なもの、そういうものを今生きている動物に対して与えること。 これは正に知的な動物が編み出した、究極の知的行為だと僕は思うんです。  だから、エンターテインメント……芸能の話なんだけど、 こうやって色々やってる人間がいるときに、 やっぱり自らも実行できるパーソナリティーが欲しい。 そうでなければ、やはり楽しませる芸は、それが絵であろうが何であろうが、 お話にならない。僕がアニメ人間が嫌いなのは、アニメ人問 ……つまり本来一般大衆に対してのお楽しみを与えようとしている人達が、 「飼い葉桶」的な動画机の片隅だけでしか楽しめないような人達だからで、 そういう人たちが、一般大衆にお楽しみを与えられるはずがないんだ、 ということを分かって欲しい。自分もそういうタイプの人間だから、 異質なものをいつも白分の中に取り入れるという心がなければ、 楽しませることなんて出来ないんだ、と思っている。  だからバーチャロンのことでは物凄く悔しかったことがある。 どういうことかと言うと、 「それ見ろこういうふうに出来るじゃないか」という事を実現している。 倹の場合、それが『ガンダム』で出来なかったという事実は物凄く悔しいことで、 それはもう、未だにこの人ねじ伏せてでも息の根止めたいっていうふうに。 亙 殺してください。 富野 はい。そしてもっと不思議なことがある。 普通の人達、つまりガンダム関係者、あるいは権利を持ってると思ってる人達、 彼らがそういうふうに思わないでいるんだ。 「バーチャロンみたいなのがあるんだよネーッ」なんて言ってる(笑)。 言ってられる。「お前らね……っ」て思うよ。 本当ならセガ行って、AM3研行って、 火をつけて来るぐらいになってくれなくちゃ困るんだよね。 そんな気概もなくて、既得権があるから、 そのことだけで食えちゃうガンダム関係者っていうのは、あいつらこそ殺していいんだろう。 亙 殺したところで、しようがないですよ。 富野 あなたは優しい。確かにしようがないです。 つまり殺す価値もないし、つまらない…… こんな言い方しちゃいけないんだけど……どんなつまらない人間でも、 人間の形をしている人を殺すと、犯罪になってしまう。 犯罪者になるっていう負債を負うのはやっぱりいくら何でも損だよね。 で、やっぱりそれは我慢する。だから僕は亙君を殺さない(笑)。カトキ君もブン殴らない。 phase 5 幕間 亙 アイスホッケーでは"dump in"って言葉がよく使われるんです。 意訳すれば「(パックを)取り敢えず放り込む」っていうことになります。 「取り敢えず」って、非常に有効なツールですよ。 僕、特にある作品作りに従事している人達に対して、 ダンプインという概念を普及させたいという気持ちが強いんです。 勿論、それは万全じゃないし、万能でもない。 でも、取り敢えず放り込む事によってその先に何かがあるかも知れない。 その可能性は統計的にみると実は20パーセントぐらいに過ぎないかもしれない。 でも、放り込むことを止めるべきではない。 それは「取り教えず」ってことに意味を見いだし得るから。 「取り教えず」って目的化できるんです。 その取り教えずってことを目的化出来るっていうところが人間なんです。 確率論的に言ってどうのこうのっていう次元で論じる問題じゃないっていうの 、やっぱりありますよ。取り教えず前に放り込めっていう、 極めて乱暴な方法論が得てして突破□になったりもするってところが馬鹿に出来ない。 富野 出来ないね。だからそれは僕のように15年前、20年前にやったガンダムでは 正にそうなんです。正に取り教えずやってみた。 やってみたことで引きずったものがあって、20年間ブランクがあったんです。 そんなもんだから、「ガンダムっていうシステムがあるところではガンダムということで、 儲けられるjっていうふうに思ってられる人達はとても幸せよね。そ んなことってないぜっていう話を先刻別の場所でしてきて、全然伝わってないんだよね。 亙 システムなんて、結局ツールでしかないわけじゃないですか。 でもそれは、それに則って、それを規範としてやっていけば万事オッケーっていう 万能ツールじゃないわけです。 行き詰まったときのダンプイン、そしてシステム、 結局どちらも万能じゃないわけですよね。臨機応変に使い分けるぐらいの器用さがないと、 やばいかもっていうことですか。 富野 やばいんだよ。 亙 どちらに偏るわけにもいかない。 そういったバランス感覚のある臨機応変さ。 僕自身は全然ないわけですけれど、欲しいなと思います。 富野 それは欲しいですね。それは全く僕も一緒で。 亙 方法論のバランス感覚的な選択っていうのは、興味が尽きないもんです。 富野 ……僕、凄く不思議なことがあるの。 東大出のインテリが、馬鹿カルチャーみたいなところに、 浸ってられるっていうのはどうしても分かんないのよ。 亙 何でそこでまた東大(笑)。 でも、いわゆる普通の「束大さん」は、確かにこんなとこにいませんよね。 富野 僕が東大受かってたら、こんな馬鹿なところにいませんよ。 なのにどうして浸ってられるの。 亙 気が向いたから。その一言。全然理由ないですから。 ただし理由がないわりには得るものは大きかったというのはある。 富野 そうだね、そういうことで言ったら、時代はそれなりに進化してるのかな。 亙 してますよ。 富野 システムなんて一昔前かね。 亙 システムってもの自体、(テンポラリーとしての)虚構ですから。 妄想、そして幻想ですから。 phase 6 語彙と扁法 富野 何でいつもガンダムの話になると富野に入ってくるのか。 もう、お前らがやらなくちゃいけない時代だってことが分かっていないという事を、 愚民に対してもう一度投げかけるための言葉が欲しいんだよね。 でも、言葉か見つけられない。一番辛いところなんだ。 亙 僕自身見いだせないですし、その苛立ちも凄く良く分かります。 言葉の本質に鑑みると、これに関しては時期を待つしかない、そう思えるんです。 この本の、一種のテーマとして成立すると思ってる詩があります。 イーノという人が書いた詩なんですけど、 "SkySaw"といいます。 All the pans turn to words (人が自らの内にある思いを明らかにするとき、全ての部分は言葉に変換される) All the words grow to secrets (しかし、変換された言葉が発信者の元から離れた瞬間、 それは受け手の解釈に委ねられるものとなり、 それが意味する真の内容は秘密の帳に包まれてしまう) No one knows what they mean (状況として、その言葉の真意について知る者はいなくなる) Everyone just ignores them (そして、言葉の本質がそういうものだという事実からは、皆か目を背けている) ……こんな詩が、1973年にうたわれているんです。 僕は子供の時、この歌を聞いてショックを受けた。 「わかっているのに、何故、それでもあなたは言葉を発するのか?」 疑問を抱いたものですが、やっぱり発せずにはいられないんでしょうね。 富野 ほんとに凄いのですよね。その詩が。 亙 言い得て妙です。 富野 (指さしながら)教えて下さい。あの人は一体何者なんです。 亙 ソフトバンクの編集長です。 富野 違うよ(笑)。 そういう事、つまりなんでそういう話が分かるわけ、あなた(編集長)は。 僕は、さっき言った通りサンライズのようなところにいて、 極度に凡俗……凡俗だったらまだいいのよ。 もうアニメとか……アニメならまだいい……ガンダムみたいなものに汚染されちゃって、 その部分の思考回路しか持ってない人達の中で、話をしていた。 だから、実は今みたいな話も含めてサンライズで教えられることってのは 何一つなかったんです。正直とても辛いです。 今こういう言葉なり詩なりっていうことを引用出来る、 こういう恰好のいいインテリがいて、こういうサプカルチャーみたいなところで、 こういうふうにやっている、そういう姿を見ているあなたは、何なのよ。 編集 「伝える者」としてのスタンスに専念しています。 ここに富野由悠季という人がいて、亙という人がいて、語り合っている。 でも、多分語っていることの内の全部が全部、自分の中で消化されているわけでもないし、 間こえてないところもあるんです。 富野 僕だって聞こえてないよ。半分ぐらい。 ……(僕が問題視しているのは)こういうことです。 活字世代として一番苦しい本人も、それを自覚しているっていうサンプルの話をします。 ここにいる彼(同席のライター)です。 結局アニメというテリトリーの中での言葉遣いしか知らないために、この程度なんです。 この程度なんだということを、時を選んで叱ってあげなくちゃいけない。 それなのに、こんなところにやって来ちゃうんです。 奇怪しいんだよね。 「お前、もう少し本気になって勉強せい」って言ってあげなくちゃいけないのに。 こういう環境で楽に生活させている世の中というのは、絶対に異常だ。 彼を叱ってあげる大人達がこの業界にいないんだよね。 それは奇怪しいんだけど、それを容認してきたから、エヴァみたいなものが出来ちゃったんだ。 出来ちゃったエヴァを叱るつもりはありません。 庵野君も叱りません。ガイナックスも叱りません。 だけど、生き物として、明日も生きたいという欲かあって、 エヴァを食い物にしている業態についている人達は許せない。 けど、彼らは何も言わない。この小利□さが嫌なんだよね。 さっきから言葉論の話をしているわけだけど、言葉ってのは、 はっきり伝えられるものがあるはずなのに、 なんであなたみたいな利口な人が回避するんだよ。許せないよね。 亙 回避してませんよ。 富野 だってあなたの言い方だったら分かんないもん。 アニメとかコミックヘ浸かってる馬鹿どもには。 亙 ところが富野先生の言葉も分かんない。 伝わらない。今の富野先生の言葉の先が分かるような人は、 もうとっくの昔(1996年)にエヴァを見切っています。 富野 実はサンライズで仕事をやっているような、 僕が見くびっているような人達の中にもエヴァを見切っている人がいる、 だけど、その一方で、実は(わかっていて)仕事をしていると思っている人達が 見切ってないという怪しき。 これはなんなんだろうな?人っていうのは本当に怖いなと思った。 亙 過渡期だと思うんです。 アニメっぽいところ、あるいはアニメ中心にしたアニメ・カルチャーなるもの、 これってちょっと縮小再生産が度を過ぎて行き詰まってるじゃないですか。 こんな状況で、現場の最先端にいる人間に崇高なモーティベーションを持てと言っても、 それはそれで酷だと思うんです。 富野 それで分かって来たことがある。今、僕は崇高という話は飛ばす。 自分が崇高っていう節分を全部切り捨てたかも知れないと思ってるから。 手足で地べたを道いつくばるところから始めないといけないんだよということが、 ほんとに分かって来たのさ。 それだから、俺は馬鹿になった。鬱病にもなった。 人間の体なんてこんなもんだってことも、きっちり言っていこうと思ってる。 そういうことを、そういう言葉遣いをしようと思っていたときに、 例えば10年、15年前に使った言葉遣いでは、伝わらないってことが分かった。 あなただって、こういう文脈の話をしてきたんだから、 富野さんの言ってることが分かんないんだよ。 だったら言葉遣い教えてよってことなんです。 亙 それは、これから紡がないと。 富野 作るしかないんだろうな、紡ぐしかないんだろうな。 亙 ある意味ちょっと優しい気持ちになって。 万能的なスタンスとか言ってみても、「こういうつもりではなかった」なんて事、 多分あると思うんだ。 富野 あるよ、で、エヴァの事をこういうふうに言った人がいる。 「庵野のリハビリだったものを見せられて、結果的に商売になっちゃった。 だから庵野も困ってるし、彼自身もう一度リハビリをやんなくちゃいけないんじゃないのか、 という風にきっと行き詰まってるはずなんですよね」って。 瓦 それ、ちょっと優し過ぎる。 富野 優し過ぎる? 瓦 そこまで甘やかされたら、ちょっとやぱいんじゃないかな。 富野 どうして、教えて。その辺分かんないんだ、今。 なぜ優しいのか分かんないから教えて。 瓦 だって駄目なものは駄目じゃないですか。 もしそれかリハビリであるなら、それを正当化して欲しくないな。 私小説じゃないんだから。 富野 ほんとにそうだ。 だからそういうふうに、底無しに無防備に優しい人達に、お前らそろそろ、 例えばこいつら馬鹿なんだということを言ってやれよっていう話をするために 必要な言葉遣いっていうのを欲しくなっちゃったんだよね。 ほんとに欲しくなっちゃったの。だから凄く辛いの。 亙 先生。なんで(時が来るのを)待てませんか。 富野 4年しか待てません。60歳で死ぬかも知れないって、まだ思っています。 phase 7 Laugh? I nearly bought one! 富野 さて、と。こういう愚民のレベルで、 今、お前にむしゃぷりつきたいと思ってるのが富野さんなんだよ。 亙 そんな恐れ多い。 そういう上下階層的対立システムを想定するのはもう古い、と敢えて申しましょう。 どうってことないじゃないですか。 結局何が生き残るかどうかなんて分かったもんじゃないんですから。 僕なんか死亡確率ベストテンに人ってても不思議じゃないな。 どちらかと言えば、真摯且つ愚直な方法の方が正解に近いということもあるんですから。 そういった意味で倹なんて正解じゃない確信度はかなり高いです。 ただし、アンチテーゼとしての問題提起、これは意味あると思うんで、 いろいろ能書きたれますけど。それに対して食いついてきたり、 反発してくるものに対しては、それはそれでオッケーと思ってます。 その調子で頑張ってくれ、とさえ思います。 だってそっちの方が多分正しいような気がするんです。 富野 だったら、俺の切り札的なちょっとした質問になるかも知れないけど、 なんで、神っていうのは、人間に浅知恵を考えられる知恵を与えたんだろう。 亙 多分それは浅知恵じゃないんです。本来、ポテンシャルはもっと高いんです。 ただ、浅知恵使ってると、結構使い回しが効くんで使っちゃうんです。 それに満足し、それに終始していたらお終いだということです。 富野 だけど、浅知恵だと思ってない人、幸せな人っていっばいいるじゃない。 亙 それは死ぬまで分からないんでしょうね。 富野 死ぬときに、気持ち良く死にたいんだよ、僕。 亙 無札な言い方をすると、不幸な死に方はしないと思います。 俺の親父とか、俺の叔父とか富野先生と同じ年代ですけど、人間的に終わってますよ。 でも、この年代でそれだけの目の輝き、 それだけの心の張りを持って物が言える人は幸せです。 そして幸せな死に方出来ると、僕は信じます。 富野 平気で嘘をつく人なんです。 僕は。そして平気で嘘を付いてるかも知れないという面があるから、 究極的なナルシストなんです。 究極的なナルシストが、世に認められて死にたいと思ってる。 亙 大丈夫、大丈夫。 富野 だけど、今肉体的に言うとピントもあってないし、 目眩が来るかも知れないという肉体を背負ってるんです。物凄く怖い。 亙 出来たらお手伝いしますよ。 富野 ほんとはすがりたいんだ。 すがりたいんだけど、こういう馬鹿……実はさっきからインテリ、インテリって言ったけど、 亙君ってのは、インテリじゃないんだということが分かったな、分かったのかな。 僕ほんとはすがれるものが欲しいんだけども、や っぱりお前じゃなかったかもしれないっていうような、凄くもう……お前はっ…… 亙 すがる必要なんてないじゃないですか。張り合っていきましょうよ。 富野 辛いもん、しんどいもん。 亙 当たり前ですよ、そんなの。 別に傷をなめ合うというんじゃなくて、張り合っていきたいな。 富野 お前の傷なんか誰が嘗めるか、冗談じゃない。 やだよ。そんな気持ち悪い。だったら女の子嘗めてる方がよっぽど気持ちいいもん。 亙 それは誰だって同じですよ、でも、だからこそですわ。 あなたの気持ちが分かります。 だからこそ、話をしたい。気持ちを感じたい。 力になれるものだったらなりたいと思いますよ。 富野 ねえ、死ぬまでこうやって辛いの。 亙 卒いです。多分こういった指向性を持った人間が一生抜け出せない境涯だと思う。 これはカルマですわ。絶対抜け出せない。 これで楽しようと思ったら、その時にクリエーターとしての人生は終わってます。 ここから抜け出すなんて、弱い気持ちをもたないでくださいよ。 一緒に行きましょう。厳しいこの修羅の違を。 意外と楽しいもんですよ、これがまた(笑)。辛い、辛いと言いながらも。 これって、ある意味盲野先生的にも共通しているところがあると思うんで言うんですけれども、 どうですか、このカルマに生きる者として、一生祈り合えないとしても仲間、 或いは隣人が欲しくないですか。ふ−む、こいつもかねがね苦しんでるんだな、みたいな。 富野 そんなのぱっかりなんだよね。 それがなくなったら、とっても辛いもん。なくなって欲しくない。 合併中止になっても潰れて欲しくないもん。バンダイも、山科さんも潰れて欲しくないもん。 あんなもんなんだ。あんなもんだったら、ちゃんと天寿を全う……普通の意味でいう、 天寿を全うして欲しいんだ。 そうでなかったら、僕は寂しいもん。 そういう感じ方、やっぱり生きてる限り、それはある。 だからその部分はとっても欲しいな、と。 亙 今や、ある程度僕もデータ欲しくなって来ました(興味かわいてきました)。 富野先生の生涯というか、生き様的なデータが欲しいですね。 これを頂けると、もっと内実にそった話か出来ると思います。 富野 データのこと。データっていうのはあんまり関係ない。 過去論でしかないんだし。 だけど生きてるというのは、今の瞬間のモーメントでしかない。 その部分で、ピンといけばそれでいいだけのことだし、 ピンといかなかったらそれっきりになる。 カトキみたいな馬鹿見たときに言えるのは、彼はああいうふうにやった、 その上で、今こういうふうになった。 だったらそれでいい、と言える部分が出来るかも知れない。 特にやっぱりカトキ君だって、捨てたもんじゃないんだよ。 そういう関係の中で、来年、再来年、この現世で生かさして貰っている我々、 どうするかという事。 亙 その点に関しては保証します。 富野先生は天寿を全う出来ますよ。逆に危ないのは僕だな。 富野 ここまで来たら、そういう話したら、倹はこういう人間だから、 こういう出来の悪い亙の天寿を全うさせたいと思うんだよね、俺(笑)。 亙 なかなかそうはいかないです。 富野 どうして。逆に言うと、なんでそういう浅知恵の生き方で良しとしちゃうの。 亙 別に良しとしてませんよ。 富野 だったら、そういうふうに嘘つくなよ。 亙 嘘もついてません。 富野 潔く言ってると思ってるわけ。 亙 潔くもないんです。僕は嘘は言わないかわりに、自分から切り札は切らないんです。 富野 他人に切り札切らして、あなたにとっては、そういう切り札って何の、 どういう意味があるの。意味ないじゃない。 亙 それがあるんです。 富野 どうして。 亙 僕がその人を好きになれるかどうかです。 結果から行くと、僕は富野先生大好きです。 倹は、他人に対する予想は当たるんですが、盲野先生は、大丈夫です。 このカルマの中にあって、最善の天寿を全う出来ると思います。 富野 2、3日後に死ぬかも知れない人間なんだよ。 亙 もしかするとそれが最善なのかも知れない。大丈夫、大丈夫(笑)。 富野 言いたかないけど、あなたがそうやって嘘でもハハハッていうのは、 どうなの。嘘のハハハっていうのは、やっぱり若いからなの。 亙 いやあ、一生こうでしょう。 富野 いやそれは違う、お前、若いからそれ言える。 この歳になると……ちょっとほんとに物理的、肉体的に……ダメージか来ると、 時々やっぱり笑えないのよ。だから辛いぞ、かなり、歳を取るということをなめるなよ。 亙 なめてなんかいませんよ。僕だって、笑いって何かと思うんです。 いわゆる「笑い」を覚えたのは20歳過ぎてからです。 だからこそ、今笑わなくちゃいけないというところがある。 富野 なんでそんなに遠回りするのさ。 亙 見極めたいからです。 富野 頭で見極めようとするからそうなるのよ。 亙 40、50になってから迷いたくないんです。 富野 インテリ結構ね(笑)。こういうとこは楽にしていような。手伝わせて。 亙 一生懸命やってきましょうよ。 富野 ほんと。 亙 生き抜いて行くために。 富野 (周囲のライター、編集者に向かって)だからお前らやっぱり馬鹿だよ。 こういうときにほんとに笑えよって。笑ってあげなさいよ。 (輯復霧雨|こて)