言い訳はやめる。  今回の企画が、かつてのガンダム・ファンから顰蹙をかっている事も承知している。  しかし、すでに七年が経っても、人の意志というのは、変わっていない。  先鋭化するところだけが先鋭化して、時代全体の意志は、 むしろ後退しているように見える。  紛争が恒常化している地域、それを支援か扇動している勢力、 それぞれに膠着化した意志が見える。  また、後進国の先進国化は、かつて日本が三十年代に経験した 大型消費経済構造を踏襲しようとして、 グローバルなバランスを取ることを忘れている。  そして、日本は、第一次重消費経済からは脱却しつつあるが、先見性を持たない (二十一世紀への保険を支払わない)経済大国の道を安穏として歩んでいる。  わずかに、それぞれの産業の先端的位置にいる人々の先見性に支えられて国家が 安泰であるのだ。が、国家構造そのままの安全機構の設定はなされていない。  大体、かくも老齢化の進んだ国家は、未曾有の事態であるに拘わらず、前世紀の倫 理観が横行しているという不思議さを大人たちはなぜかくも是認するのだろうか?  自己改革の必要に迫られているのに、旧体を維持するための老人支配が横行しよ うとしているのは、時代にとって危険である。  しかし、官僚とか、別のシステムという摩訶不思議な生き物のおかげで、大人たちが 生かされているという事態は、奇妙であるのだ。  それは、現代の君たちにとっても、無縁ではない。  むしろ、家庭という本来人が形成されていくべき最低限度の単位さえも、過多な愛情 のおかげで、崩壊のうきめをも見るかも知れないという可能性をはらんだ時代など は、異常この上ない事態なのだ。  それでいて、逆に、人の個性、主権を主張するあまりに、独善が個性としてまかり通 るという極端もある。  この幅の広さが世の中なのだとせせら笑うのは個人の自由だが、そのことが頽廃を 生み出す土壌となるであろう都市生活者の精神構造も危機であろう。  しかし、田園に生きよ、と言ってもその田園はすでに過去のものとなりつつある時代 に我々は直面しているのである。  そして、そんな苛酷な環境の中で人は、若者は次の時代の希望などは持てないと言 う厭世観に支配されても仕方があるまい。  しかし、青年は大人になる。  厭でも大人になり、厭でも組織の中で硬直化した思考を強要される。  ならば、ウソでもいい、冗談でもかまわない。ニュータイプをやってやろうじゃないか、 と言ったドイツイ台詞を出そうじゃないか。  そのためには、繰り返しでも構うものか。またガンダムなのだ、と、自分にも言いき かせるのが、このニューガンダムなのだ。ゼータ・ガンダムなのだ、と言う事だ。  ゼータ・ガンダムの世界は、前作の7年後、8年後に近い7年後の時代に設定した。  当然、かつてのレギュラー・メンバーたちは、それだけ歳をとっている。  そして、サブ・アタック・タイトルは、『逆襲のシャア』である。同時にこれが、本物語の テーマでもある。  なぜこのようにしたのか?  パート2物のパターンを変えたいからに他ならない。  他意はない。  が、同時にガンダムという物語は、ロボット物である以上に、リアルな物語であろうと いうかつての視聴者たちの意見に従ったのである。  製作者の都合で、レギュラー・メンバーたちの年齢が永遠に変わらない物語はおか しいからである。  そして、そのような物語作りは、アニメに限らずにあるのならば、その新しい試みに 挑戦してみようということなのだ。  これが、危険な賭であることは承知している。  しかし、なにか挑戦の要素がない仕事は、人を停滞させるだろう。  製作者は歳をとり、パワー・ダウンしているのである。それを活性化するためにも、 試みというものは設定をしておいて良いのではないのだろうか?  それが、この度のゼータ・ガンダム上梓の理由である。  パート2物のジンクスも承知している。  しかし、やると決めたからには、過去のことは忘れて、現在の自分が考えている事々 の全てを作品に投入する意気込みでかかりたいのだ。  そのために、アムロ・レイやセイラ・マスには申し訳ないが、歳をとって貰った。それ に変わるべき世代交替劇を描きながらも、カミーユ・ビダンという少年の時代のニュー タイプを考えてみたい。  シャア・アズナブルもまだまだ若い。  その大人としての魅力を引き出す仕事にかかわりながら、もう一度、時代を振り返る 仕事を手にいれたい。  そして、この苛酷な時代であるからこそ、それに対応できる己れを見つけだしたいと 願うのである。  そして、この問題は、若い諸君にとっても無縁ではないだろう、と想像する。  君は、生きのびることができるか?    1984・10/31 *Zガンダム制作発表の記者会見で配られた文章だそうです。